岡村愛一公開講座
はじめに

序文

ここに紹介する内容は、著者岡村愛一先生の講義録です。「塾生諸君に」は先生御自身が東海大学「望星学塾」に着任された時の挨拶文で、先生御自身の意気込みが伝わってくる内容です。

当時望星学塾は700人以上の学生が共同生活をし、そこは生活全般にわたって学生と学校が共同運営の形を取り、学生の自治を尊重する形で運営されていたようです。その内容は、学生生活にそったもので、学生が主体となり講演会、映画会、学園祭に因むお祭りの実施、食堂との交渉などで進められていたそうです。そこに大学当局・松前重義総長は、更に名前に相応しい学びの場にしたいと意図されたようで、そうした中で推薦された方が岡村愛一先生であったと聞いています。丁度其処に私は大学一年生として入学しました。

岡村先生は、一週5日間学塾に学生の中に入って生活して下さいました。大学ではドイツ語専任講師としての講義を受け持たれる中、夜はドイツ語の補修をして下さり、他に、御自身の人生経験をもとに一般教養講座から日本の古典、和歌、歴史、国防論などにわたって講義、茶話会などにも御付き合い下さいました。また、学生が計画した大山(おおやま)登山にも参加下さるなど、本当に学生と共に学ぶという姿勢でした。

私の卒業した数年後、学塾は閉鎖されましたが、市村克明君を中心に湘南塾、佐々木隆君を中心の海洋塾に受け継がれ、長期休暇中に清水の三保の松原近くで合同合宿を重ねました。彼らの卒業後には、平林広人先生の信濃木崎の夏期大学に習い、望星夏期大学と命名し毎年2~3泊で開催しました。

今回この講座の中にあったものを、講義の内容ごとに「一般教養」「和歌」「日本近代史」「兵術序説」と整理しました。これらは、先にも触れましたように先生御自身の人生経験をもとに講義下さり、資料は総て手書きによるものでした。如何にしたら若者が育つ肥やしになるかを顧慮下さり、先生の読書経験の中からのものを含め、御自身の意見を交えて講義下さったと拝されます。私が学んだ時から50年以上経過しましたが、これらの資料は今尚貴重な内容だと考えています。人生は深く、個々人によっても様々な生き方があると思いますが、先生の御示しになった内容は、そうしたものを考えるのに相応しく、その問いに応えられるヒントになるものと信じます。先生の若者に寄せられたお気持ちを汲み取り下さり、お目通しいただければ幸いです。

望星夏期大学代表 松本洋治


塾生諸君に(著任のことば)

岡村 愛一

私はこのたび不思議な御縁によりこの学塾で諸君と起居を共にさせて頂くことになりました。辞令の上では専任講師文学部(第二語学)勤務および学生部付兼務ということになっていますが総長先生はじめ関係上司の方々から私の実生活の主体をこの学塾におくように指示せられ私も亦そのように決心致しています。従って家においていましたささやかな書物ノートは全部学塾に運びます。家族(家内・長男夫婦・孫一名・二男との六人の同居生活)との生活もあきらめました。毎年経堂にある私の家(小田急線経堂駅下車)の庭に楽しく作つていました菊や夕顔も本年からこの学塾の庭で作らせて頂きます。

齢すでに65才を数えややもすれば時代に取り残されようとする私には何も出来そうにも思われませんが幸に健康にめぐまれていますのでただ諸君のために諸君が〃汝の思想を培い、汝の希望を星につなぐ〟ための資料の一かけらでも多く集め得ましたらと秘に念願しています。

スイスの有名な思想家ヒルティ(Care Hilty 1833 - 1909)の愛したエピクテートス(ギリシアのストア主義者)の語録の中に次の一節が見受けられますが私もこの一節に心を惹かれます。

「君はある戯曲のなかで詩人が君を通じて演出しようとするある一定の役割の持主にすぎないことを忘れるな。その役が短ければ短い役を、長ければ長い役を君は演ずるのだ。詩人が君に貧乏人の役を演ずることを求めたならばそれを立派に演ずるがよい。ビッコでも、役人でも、普通の市民でも同じことである。何故なら君に振りあてられた役を立派に演ずることが君のなすべきことであつて、役割を選ぶことはほかのひとの仕事だからだ」

○數ならぬ身にしあれど大君のみことかしこみ職守らばや

私は1924年(大正13年)陸軍士官学校を卒業し陸軍少尉に任ぜられましてから復員に至るまでの24年間を一貫してこの信条に基いて服務致しましたが現在でもすべての人が自己の職責、天職を一生懸命に守つたならば世の中はもつと明るくそしてもつと平和になると信じています。

敗戦という極めて大きなショックを受けた私は終戦後なんとかしてもう一度学生になってみたいと少年のようなことを真面目に考えていました。東大かどこかの大学の入学試験を受け度い、必ずパスして見せると思いつめたことも度々ありました。事実本年四月から上智大学の哲学科の修士コースの聴講生として入学させて頂くつもりで哲学科の主任の先生にも御引見頂き具体的にその準備を進めていました。

このことでもわかりますように私は諸君を指導するとか教育するというような大きな力を持ち合せていません。出来ますことはただ諸君と起居をともにすることだけです。

「黙々として私の置かれた立場に於て極限の生き方をする。」これが諸君に対するせめてもの贈物であり望星学塾乃至わが大学に対するせめてもの御奉公なりと信じています。家にいました時も私は父親として二人の子供に残すべき何物もない。ただ「親父がそのときそのときの境遇に応じ身と心をつくして真実な生活を重ねていた」という記憶だけを残しておこう。これのみが子供に対する唯一の遺産なりと考えていました。

殊に私は最近の過去20カ年大学などとは凡そ縁の遠い実業界(機械金属業を営む会社に勤務)にいまして本年四月一日にわが大学に着任したばかりであり学部や学塾の事情もわかりませず新入塾生同様まごまごしていますので総長先生はじめ先達の先生方の御指導のまにまに先づ早く理想的の塾生になりきろうと堅く覚悟しています次第です。

それから事私事に亙り汗顔の至りですが私は旧陸軍の名もない将校の一人であります。軍人として戦に敗れたという私の心境は終戦後生れられた諸君にはとてもご了解頂けないでしょうが私は私なりに今尚なやみ続け胸を痛めています。背負いきれない戦争責任を感じています。従って終戦後一切世間の表面に出ますことを遠慮し何処に居ましょうとも内心は常に終身戦犯として(アメリカから指定せられた戦犯ではありません。私自らが私に与えた刑罰です。)として巣鴨の刑務所に服役しているつもりでいます。

○大君の千代万世を祈りつヽ散りて失せなむ枯れし木の葉と

○来む春をなどかまつべき桜花散りおくれたるうつし身にして

○業深き身は今も尚ながらへてなすこともなく月日おくりをり
  [註 業=ゴウ]

このような心境で私は静かに枯れた木の葉となつて人知れず散ってゆきます。そしてその木の葉が万一にも若い方々が御育ちになる培養土の一握にでもなればという淡いのぞみを抱きつヾけ・・・

諸君どうか理想的の望星塾の塾生そして立派な社会人→21世紀を担う立派な日本人になつて不滅の祖国日本をお守り下さい。今日ここに改めて若い世代の方々に敗戦のお詫びと今後へのお願いを申し上げます。

総長先生も本日の入塾式で御心をこめくりかへし、くりかへし日本の歴史が諸君に期待するとお諭しになりましたがこれは国を憂うるなべての老人の思いつめた心境であることを告白致します。私は「今時の若い者は・・・・」と申すような言葉は絶対に排撃します。私は心から若い世代の方々を信じています。

○ますらをのかなしきいのちつみかさねつみかさねまもるやまとしまねを
  桜も散り四月もはや半ばをすぎました。

○ほぐれつヽ葉がたつぎつぎあらはるヽ木々の芽ぶきの時ぞにぎはふ
  青年を象徴して青葉若葉が萌えはじめています。

私も学塾のベットの上で51年前父に伴われ村人に送られてはじめて田舎の家を出て大阪にある陸軍幼年学校(入学資格、中学第一学年第二学期の学力を有し選抜試験に合格した者、終業年限3ケ年、同級生50名、この学校卒業後士官学校予科に進学)に入学したことを思い出し感慨に耽っています。

○夾竹桃も花さく庭に衣更へし幼きその日おもほゆるかも
  註・[昔は高等学校(旧制)、大学、等の入学は通常九月一日で夾竹桃はその頃咲く花です。]

お互に健康に注意し手をとり乍ら理想的の学塾生活を送りましよう。

(昭和43年4月14日入塾式の夜)


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